柴 又 七 福 神
毘沙門天 柴又帝釈天題経寺
平成廿六年一月六日
                   
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柴又七福神 色紙

毘沙門天 柴又帝釈天題経寺 御朱印

題経寺の縁起

法華宗、下総国葛飾郡中山村法華経寺末、経栄山と号す。
相傳ふ古は草庵のごとくなりしを、
寛永6年(1629)中山法華経寺19世禅那院日忠草創せしよりこの僧を開山とす。
萬冶3年10月16日寂せり。
其後延宝年中本山の塔頭正善坊、後院と号す。
日遼、当寺を兼帯して其功ありしより中興と称す。
帝釈天像。
縁起の略に云。
当寺に日蓮彫刻せし祈祷本尊とて、寺寶にありしよし古へより云傳へしが、其在所を知らず。
然るに安永8年本堂再建の時棟上より長2尺5寸、幅1尺5寸、厚さ5分程の板出たり。
水をもて其煤塵を清めしに、片面は病即消滅の本尊を彫し、片面には帝釈天の像を刻せり。
板の小口は松に似て脇の方は檜に類し、堅く重きこと尋常ならず。
是即ち言傳へし日蓮自刻の寺寶なりとて、本山に達しかの帝釈天は庚申に因あり。
又屋根裏より出たるも庚申の日なれば、其日を縁日とせしより次第に近郷の土人信仰なし、
江戸にても信ずる者多く、又其像を乞へば板の両面を摺写して与ふ。
今仮に本堂に安し、社は未だ造立ならず。其の図次の如し(略)。
弁天社。水神社。祖師堂。日の出の祖師と号す。日祐の作と云。
本尊三寶も仮に此所に安ず。
鬼子母神堂。三十番神堂。
(新編武蔵風土記稿より)

寛永6年(1629)中山法華経寺第19世禅那院日忠の開創。
その以前から草案の如きものが存したというが、
幕域の内外から南北朝・室町時代の題目板碑が多数発掘される。
延宝年間法華経寺の塔頭正善房日遼が当寺を兼務して中興開山となる。
安永8年(1779)9世日敬のとき、本堂改築に際して、
梁の上から日蓮聖人自刻と伝えられる帝釈天像の板木(板本尊)を発見して、本堂に安置した。
以来発見の日に因んで庚申の日をもって縁日とし、柴又の帝釈天として、
江戸や近郷からの参詣者多く、今日に及んでいる。
総門には持国・増長ニ天の古像を安置し、
板本尊を安置した本堂の法華経説相図浮彫は、客殿の南天の床柱とともに著名である。
(葛飾区教育委員会 葛飾区寺院調査報告より)



柴又帝釈天には日蓮上人が自ら刻んだと伝えられている「帝釈天の板本尊」が安置されていますが、
開山間もないある時期、この御本尊の所在が不明でありました。
ところが、第九代の日敬上人の時に、本堂を修理したところ、棟の上からこの御本尊が発見されました。
安永8年(1779)の春、庚申(かのえさる)の日であったことから、柴又帝釈天では庚申の日を縁日と定めています。
当時、江戸の町では庚申信仰が盛んであり、
『柴又に帝釈天が庚申の日に出現した』と江戸市中に広まり、柴又の帝釈天として有名になったそうです。
さらに、板本尊が発見されてまもなく、江戸の町に飢饉、疫病が蔓延しました。
「天明の大飢饉」といわれる江戸時代の惨事です。
このとき柴又帝釈天の住職であった日敬上人は板本尊を背負い、
「南無妙法蓮華経」と唱えながら江戸の町を歩き、災害や病気で苦しんでいる人々を救済して歩いたそうです。
こういった事で柴又帝釈天は「庶民の寺 」として親しまれ有名になったのでしょう。



庚申信仰について
「庚申」は、干支(えと)の組み合わせで、一日ごとにその干支が当てはめられています。

     十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)
     十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)

これらを甲子、乙丑、丙寅、・・・と組み合わせると全部で60種類の組み合わせができます。
その一つが「庚申」で、「かのえさる」「コウシン」と読みます。
暦に当てはめると、60日ごとに庚申日が訪れます。
よって柴又帝釈天の縁日「庚申」も60日ごとです。

庚申信仰、風習について
各地に伝わる『庚申縁起』によると
『人間の体には三尸(さんし)という三匹の虫が住んでいて、庚申の日の夜、人が寝ている間に天に昇って、
人々が行った良いこと悪いことを天帝に告げ、その罪科によっては寿命を縮められてしまうという』という話がありました。
それを逃れるには「善をなし悪をやめ、庚申の夜には、香華や百味の飲食を供え、真言を唱えて仏を念じて眠らない。
さらに、六度の庚申の夜を無事に勤めれば、願いが成就する。」と。
そこで人々は庚申の夜は寝ないで過ごし、夜が明けると一番でお参り行ったそうです。

江戸時代には日本の各地で「庚申講」という講がつくられ、
全国に点在する帝釈天を祀る寺社へお参りし、供養塔や庚申塔を建立しました。
現在日本全国に「庚申塔」があることから全国規模で活発に行われたのではないでしょうか。
というのが一般的な歴史ですが、
調べてみると、「庚申の夜は、眠らずに、無病息災を願って過ごす」という平安時代の貴族の風習があったようです。
(元来、中国の道教に由来する教えのようです。それが8世紀頃に日本へ伝わり貴族を中心に広まった)
その貴族文化が少しずつ民衆に浸透し始め、江戸時代に一気に全国規模で広まったのではないでしょうか。
他の風習をみても、全国的にインフラの整備がされた江戸時代に、貴族、武家の風習が一気に庶民に広まっています。
たとえば「七五三」の起源は関東の風習であり、起源は平安、室町と諸説がありますが、
11月にお祝いする形が全国に広まったのはやはり江戸時代だそうです。


万福寺から歩いてすぐの処に門が「ありましたが、先を見ると長蛇の列がありました。
列は柴又帝釈天の参詣に訪れた人たちでした。二天門には大きな松飾りと立派な門松がありました。
境内に入ると列はまだまだ長く続いていました。右の方を見ると、御札・御守授与所がありました。御朱印もここでいただけるでしょう。
列はなかなか短くはなりませんでした。
                   葛飾区登録有形文化財
                                  題経寺(柴又帝釈天)建築彫刻一括
                                  諸堂内及び二天門建築彫刻一括
                                        所在地 柴又七丁目10番3号
                                        登録年月日 平成4年2月5日
                    帝釈堂、祖師堂、二天門には、多くの木彫による建築浮彫装飾が施されています。
                  特に帝釈堂は設計林門作、棟梁坂田留吉の指導のもとに作られました。内陣外側の
                  銅羽目彫刻10枚は法華経説話を題材にして、加藤寅之助・金子光清・木嶋江運・
                  石川信光・横谷光一・石川銀次朗・加府藤正一・山本一芳・今関光次・小林直光等の
                  彫刻師により制作されました。大正12年(1923)9月、それぞれの彫刻師のもとに
                  運ばれていた欅の彫刻材は、関東大震災によって、すべてを焼失しました。その後
                  欅材を全国に求め、発願から十数年の歳月を費やし、10枚の銅羽目彫刻は昭和9年に
                  完成しました。
                   彫刻の下絵は高山栄州描いています。銅羽目の寸法はそれぞれ縦1.27m、横2.27m
                  厚さ20p横一枚の大きさです。
                   他堂や二天門の内外に施された彫刻も同じように貴重なものです。
                                                     葛飾教育委員会

帝釈堂に上がってお詣りしましたが、
堂内は撮影禁止でしたので
写真は一枚もありません。。
お詣りが済んでからお神籤を引きました。
第十一 大吉
ふくろくそなわりかぎょうもはんじょう
げいのうなだかくみやこにひびき
やにのりそらをゆくがごとくに
かんのんぼさつのたすけもあるなり
此所で御朱印をいただきました。
瑞龍松
帝釈堂の前にはまだ長蛇の列ができていました。脇から江戸川の「矢切の渡し」の方へ向かいました。
  
うなぎ「柴又川千家」HPより